妙なもの

 

彫刻の道1/散歩していると、竹の塚団地の一角。彫刻がその周囲に点在していることに気づく。標識の説明を読むと、足立区のまちづくりの一環として設置しているとのこと。そにしては、街に溶け込みすぎて目立たない。だがよく見れば、日常風景に違和感をかもしている。彫刻家たちに敬意を表しつつ、この妙な造形物をじっくり味わってみよう。7作品。

錆びた泉

 

彫刻の道2/首だけの狼が、錆びたドラム缶に食いついている像?!  そうではない。作品名は「泉」。と、いうことは、このごつい円錐は、なみなみときらめく水。狼の首は虚空から現れた一部で、背後には動物の霊たちが「水が飲みたい」と蠢いている…。作者は小泉俊己。横のプレートに「自然の大きな流れを表現」「水はその流れの象徴的存在」と説明。でも、この前に佇んで「自然」を感じるかなぁ。色が地味。なんで彫刻って青茶っぽい半端な色なんだろ。透き通る水を、この鉄板から想起してこそ、アートを味わったということになるのか。いっそ透明の樹脂なんか使って、水や狼をリアルにカラフルに再現すれば、ギョッとインパクトが出て、話題になった気が。

風にあらがう石

 

彫刻の道3/作品名は「石の風」、作者は堀内健二。「太古の風」が「石を撃ち 塵を払い 新たな生命を呼び覚ます」と、そのイメージをプレートでうたう。しかし、ウェーブする石肌のブロックはむしろ重量感のある壁で、風を切り裂くよう。コンクリートの塊である後ろの団地と、どこかだぶって見える。人工物は、なんだかんだいっても自然にあらがっている。と、いっても勝利するのは結局風だろう。永劫の時をたっぷりかけて、風は、この彫刻の石も団地も、地球も世界も、すべて塵にして虚空に吹き飛ばしてしまうだろう。そんな感慨にさそったのだから、この彫刻の意図は成功しているのか…。

競演

 

彫刻の道4/真ん中のゴデゴテした棒が、島剛の作品「煙突」。「木材で組み立てた細い筒を立て、下からバーナーで火を通してみた」「炎が内側を焼き上げながら上昇する光景は、煙突を思わせた」から「煙突」というそうだ。それは制作過程のことにすぎない。私はこの作品を「擬態」と名付け、両サイドの電信柱と街路樹と合わせて眺めたい。電信柱は、人工の棒。街路樹は自然が創り出した棒。そして島の作品は自然を木を荒く真似た棒。つまり木のまがいもの。自然と人工物とアートの「競演」の図として、人間の文明に思いをはせる「環境アート」ととらえる。一番精巧な作品は、木。光合成ができるスーパーコンピューターだから。一番役に立つのが送電できる電信柱。無用ゆえに一番奥ゆかしいのは真ん中の棒。

呼吸する「心」の形

 

彫刻の道5/石のダイコンのような。岡本敦生の「地殻より」。本人曰く、「『これは何ですか?』と質問されると、『私にもよく分からない。心の底で欲している物が、出てくるような』と答える」と、正直だ。上がカリッとした意識で、下がそれをゆらゆらと支える無意識か。無意識はなまめかしく不定形。ゴニョゴニョと動いている。無意識が固まったのが地続きに意識があり、生堅いが決してカチカチでない。そんな心の全容が表の世界にプルンと露出されたような。巷にあふれる生物の形態と通じる感じもする。生き物の形そのものが、実は個々の心の形ではないのかとも思える。山や海や岩といった無機質の形に相通ずる気もする。だから彫刻という石が、妙に生きて見えてもくる。この作品、有機質と無機質のキメラ。

パッカ〜ン

 

彫刻の道6/桑名良知の「自我-その確立」。「頭の中の知っているものと結びつけようとなんかしないでね」とプレートに書いてるが、作品名を読んでしまったから、それに引きずられる。直感では「パッカ〜ン」という感じ。「私は私だ」という意識を持ったのは、4歳か5歳。ウルトラマンが放映されてるテレビの前だったような。それこそパチンとスイッチが入り、心のスクリーンに意識の映像が映ったという感じ。それはこの彫刻のように、すっくと立ったものが、パッカ〜ンとはじけたような。当時の私は、自分が大きな人(大きな子供や大人)になるなんて想像もつかなかった。しばらくして、湯気のように消えてなくなる感じがしていた。どこか霊的な世界につながっていた。「自我」が本当にくっきりしてきたのは、7、8歳くらいだろうか。

「いい天気だなぁ…」

 

彫刻の道7/柏木昌の作品「空を眺めながら」。緑の女性は、平べったくなって、空に溶け込もうとしているのか。人は気分によって、心の中で体を変形させてるのかもしれない。満員電車の中では、堅い巻き寿司のように。泥酔した時は、トコロテンのように。びっくりした時は、割れた風船のように。楽しい絵本ができそうだ…。

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