大賢人トルストイ曰く…

 

トルストイの『生命について』(集英社文庫)を読書中。

古本屋でパラパラみて、この人の生命観を通して

科学観や宗教観が論じられているのに興味を持ち、買う。

100円なり。

 

まだ途中だが、一つの考え方を、

いろいろ言い換えて言葉をつらねているなと思う。

自分なりに、こう解釈してみた。

 

人間は、「個」として、己のみの幸せを追求しても、幸せにならない。

欲望を肥大化させて、物質を取り込むだけ。

それは、欲望の「袋」たる、あるいは、欲望の「獣」たる状態。

 

真の幸福とは、「個」を捨てること。

自分だけの利益を求めない。

「個」を「理性」の下において、

己という「個」以外の存在のためにつくすべき。

それによってはじめて「生命」につながり、

幸福を得ることができる。

これは、古の聖人が説き、

以来2000年の人類史が到達した真理である…と。

 

だから、トルストイにとって、「科学」は相当いかがわしく、

認識の間違った方法論ということになる。

科学は、物質の仕組みを解明するだけで、

「個」の意識を物質界にのみとどめる考え方だと。

 

では、「生命」とは何を意味するか。

「理性」とは何を意味するか。

「宗教」とどう付き合うか。

…は、まだ読んでない。

 

ごたいそうな問いである。

なにも教養を深めたいから問うのではない

(教養なんてクソくらえだ)。

中年時代の真ん中にいるから、

知りたいのである。

 


既存品生活

 

ここ最近毎日、

ビール、辛キムチラーメンの汁、カップスープ(ポタージュ)、

味噌汁ゆうげを飲んでいる。

このパターンのくりかえし。

飽きずに、まあ…。


「歯ブラシ」紀行

 

歯ブラシの「DENTALPRO ブラック」硬めが、

なかなか使いやすい。

まるで黒ヒョウのようなワイルドさで、

歯垢をグワッと襲い、跳ね飛ばしてくれる。

 

歯の表面をくるりと掃く「ローリング法」だと、

ブラシがダルリダルリとはじくようになる。

歯の間を磨く「つっこみ磨き」では、

硬いブラシの一本一本がグサグサ刺さるように

歯間を貫いてくれる。

ブラシヘッドが小さいので、

歯列のU字にあたる部分も磨きやすい。

 

問題は、歯と歯肉の間の「溝磨き」だが、

きちんとブラシが入っているのか心もとない。

ブラシが硬い分、太いからだ。

 

決定的な欠点は、柔軟性がないぶん、

ダメになるのが一週間ほど。

 

 

 


企画書

 

何回か読んだ栗原康著の『生態システムと人間』を

パラパラめくる。

 

最後の文章がすごい。

生物というのは、絶えず必死に生き残ろうとする

内的衝動を秘めて生きているのであり、

それが進化の重要な原動力であるという。

 

「内的衝動」という言葉に、

哲学者のいう「盲目的な意思」や「純粋持続」、

仏教でいう「無明」なんかあてはめてイメージしてしまう。

 

人間への警告も発する。

人間が地球上で存続するためには環境保全だけでは不十分で、

技術によって飼いならされ自己家畜化ほ克服しつつ、

すべての生物と同じく、内的衝動の炎を絶やさないことだ

という。

 

栗原氏の生態学は、

「人類も生物圏の一員である以上、

いずれは主役の座から降りなくてはなりません」

と言い切るほどに、爽快で広大。

宗教の独善を乗り越えるこの科学的知見にとても共感する。

 

この本をヒントに世界を見て歩いたような

ルポが書けないだろうか、と考える。

 


合わせの妙

 

東京都美術館の「ムンク展」のPR広告で、

タレントの小峠英二に、名作「叫び」の真似を

させていたのに感心してしまった。

 

この人の持つキャラクター、ゴシップ、その形体に対して

ムンク作品が、絶妙に響きあっている。

 

美術館側の広告代理店だかキュレーターだかに

智恵者がいるのだろうな。

 


虚空の風にさらされて

 

成功の秘訣は「運」「鈍」「根」という。

「鈍」は、プレッシャーに鈍感であること。

「根」は、根気だ。

 

なるほど。よく分かる。

人間世界の大地には、

「運」「鈍」「根」で構成された土くれの塔が

無数に建ちならんでる。

大きいやつ、超巨大なやつ、ひょろ長いの、小さいの、

砂ほどの点のやつ、穴になってるやつ…。

 

しかし、そんな突起物がなんになろう。

「時」という大風にさらされていれば、

いつかすべてはなくなる…。

 

…という空しさが胸いっぱいに広がれば、

マックのダブルバーガーにぱくつき

コーラーをがぶがぶ飲もう。

「企業努力」「純利益」「戦略」という用語の

アマルガムを腹にどしんと入れるのだ。

 

われは、「運」「鈍」「根」の大地にいる。

それにどっぷりまみれて戦い、

「塔」をつくりあげていくのも

楽しくはないはずだ。

きっと…。

 

 

 

 


ああ、悲恋、フランス映画

 

アブデラティフ・ケシシュ監督の

フランス映画『アデル、ブルーは熱い色』をDVDで見る。

レズビアンカップルの悲恋ものだ。 

 

主人公アデルは美しい女子高生。

レズビアンの美学生エマに一目ぼれして、

自身が女性に興味があることを自覚する。

ボーイフレンドと付き合って何か足りないものを感じていた時期だ。

自我が鮮明になる思春期に、「正常」とされる性意識と

違うものが出てきた時のとまどいの心理が痛々しい。

彼女は大いに揺れる。

その真っ最中に出会ったエマは、強烈な天啓となる。

 

アデルはエマと付き合い始めるが、学友からの中傷も出た。

保守的な親たちとの軋轢も予想されたが、映画はあっさりそこをパス。

アデルはさっさと年来の夢の保育士の道に進んで自活をはじめ、

エマと同棲しているシーンに飛ぶのである。

揺れていても人生は自身で切り開くもの、

というフランスの個人主義を感じなくもない。

 

彼女たちの暮らしぶりを眺めていくと、

性格的に、エマが「男性」、アデルが「女性」の役割を

受け持っているを興味深く思う。

同性カップルでありながら、男女の要素が入りつつ、

しかし同性が基盤でつながっている。

人間の性とは、がんらい複雑かつ個性的なものなのだ。

次の大きな山は、恋の破綻である。

エマは新進気鋭のアーティストとして売り出し中のため多忙に。

また真正レズビアンで過去の恋人や仲間との付き合いも多い。

アデルは、一人おかれる寂しさと嫉妬で、

職場の同僚とつい肉体関係を持ってしまう。

それを知ったエマが烈火のごとく怒り、

許しをこうてまつわりつくアデルを断固拒絶する。

二人は、純粋に熱烈に愛し合っていたが、

それがとことん裏目に出たのだ。

エマの怒りの異常さは、芸術家の完璧性や、

レズビアンとしての潔癖さ(男性に対する性的嫌悪感)も働いて

いたのだろうか。

アデルは、ただただ最愛の人から引き離される事態に

呆然自失するばかりである。

その拒絶シーンは、生木が裂かれるような激しい痛みを

見る側に感じさせる。

 

半年か後、アデルは、エマを食事に誘い、和解を試みる。

エマはすでに、子を持つレズビアンと家庭を築いており、

アデルの元へは戻れないことを暗に示す。

二人は互いを愛するゆえに、別れ、去ってゆく。

「この人生で、これ以上愛し愛せる人は、もういないだろう」

と、互い深く想いつつ袂をわかって終わる。

 

ああ、フランス映画…。

 

 

 

 

 


カレー鍋、感想

 

クックパッドを調べ、初めてカレー鍋をつくった。

カレーとの違いは、水の量が多いことと、

和風だしの素、醤油、みりん、酒を入れるだけのこと。

おまけにカレールーは3粒程度でよし。

 

味はまあまあ。

上の調味料のバランスを変えれば、絶品になるかもしれない。

具は豚肉、じゃがいも、ニンジン、ソーセージだから、

カレーと変わらない。

 

カレーうどんができることもいいが、

最大の利点は、食後に食器を洗うのが簡単なことだ。

使うカレールーが少ないので、

ルーがねっとり絡みつく具合が激減。

カレールーを節約もできる。

月に2、3度はやってみてもいいかも。

 

秋冬は、例年のごとく、

鍋奉行でゆく。


永遠・輪廻・浮世離れ

もう20年も前に、立花隆著の『臨死体験』を読んだが、

この本ほど腹立たしい本はなかった。

臨死体験者のインタビューをつらね、

死後の世界、魂は存在するかを科学的に解明しようというのが

その趣旨だったと思う。

結論がひどいのだ。「結局、よく分からない」と言う。

分厚いページを読み進めていった時間を返してくれと思う。

「埋蔵金が埋まってるかもしれない」と2時間の特番をやり、

「結局、ありませんでした!」というアホなテレビと同じ。

 

なぜこの本を思い出したかというと、

ユーチューブで、ある仏教学者が批判的に触れていたからだ。

哲学や宗教の本を繰るうち、立花氏の『臨死体験』の話題は

ちょくちょく出てくる。

みなが言うのをざっくりまとめれば、

設問の立て方が間違っているということだ。

科学は、基本的に物質界の構造や動きなりを説明するにすぎない。

悟性でとらえる感覚世界が守備範囲で限界なのだ。

魂や神といった悟性や理性でも把握できない世界を

科学がとらえ得ることは、そもそも不可能なのである。

 

かといって、哲学や宗教が主張する

死後の生や魂の存在についての言説は千万とあるだろう。

仏教はインド思想の輪廻転生の上に立つし、

キリスト教は、再臨したキリストが、死した信者より

善なる人を選んで永遠の魂を与えるとする。

神智学は魂にはいろんな層の異なる性格の魂が重なっているという。

 

結局、何が本当かは分からない。

ただ、分からないところを超えて、何かあるだろうという

予感はある。

その予感はかけがえのないもので、

生きている今を味わい深いものにするのは

間違いない。

 

 


自己完結型食事

 

ユーチューブの「映画 食事シーン」で検索すると

出てくる『結婚できない男』。

 

この映画は見たことがない。

食事シーンが面白かったので、注目してみた。

阿部寛扮する独身男は、建築家らしい。

自宅マンションで仕事をしている。

 

日々の料理は自分で作る時間がある。

腕前はプロ級で、独り寿司を握っては、

その美味に一人ほくそ笑む。

 

孤独の時間を充実して過ごせることは、

独りものの特技であらねばなるまい。

この能力が十分に備わっていれば、

「結婚する必要はない」。

 

映画の男は、「結婚できない」というより

「結婚しない」選択をあえてしているようにも見える。

女性とお好み焼き店に行っても、

相手への関心は一切なく、完璧なお好み焼きをつくることに

心くだいている。

 

独り完結する食事は、充実感が伝わってくるが、

どこか侘しさが漂う。そして滑稽だ。

 

人は、集って食事するのが、有史以来の基本形かもしれない。

一人では食を確保できなかったろうから。

一人で完結し続ける日々の食事とは、

歴史上新しい形態なのかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=L3GKVRdK5Ks&t=152s

 

 

 

 

 


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