多読すべからず

 

最近、金のかからない趣味として、

ますます読書だけが楽しみになる。

 

ショウペンハウエルの『読書について』を読み出すと、

「多読はするな」と戒めている。

読書は、「自分の頭ではなく、他人の頭で考える」行為で、

やりすぎるとアホになると言う。

そもそも本は、考えるための栄養剤みたいなものだと。

「早く言ってくれよ」という気持ちになる。

前世紀の人で早く言ってくれてるが…。

 

振り返ってみれば、

自分の頭には、読むわりにはたいして知識がない。

読んだものを片端から忘れるからだ。

この無知さ加減は、驚くべきことだ。

原因は分かっている。

記憶力が弱いことと、

内容をよく噛んで消化しないからだ。

飯の食い方と同じ、ガツガツしているだけ。

頭脳明晰な人より、

かえって被害を受けてないのかもしれないと

開き直ってもみる。

すぐに妄想がわき、他人の考えがどこかへ行くから。

でもそれでは、ただ本の前で漫然と

時間を過ごしたにすぎなくなる。

 

これからは、

読むものを選んで、精読しないといけないと、

今更ながら思う。

滋養のある本を、何回も何回も読もう。

読むべきもののリストはある程度あるし。

 

ところで、読書はある意味怖い。

食う寝る以外、

ほかに何にもしたくなくなる。

目の前の花を愛でるより、

活字で書かれた花を「花」として味わえてしまう。

これでは廃人である。

スマホ中毒者を笑えない。

 

何年か前、ある不動産店の女性社長が、

「読書は一切しない。旦那にもそれをさせない。

『人生』が薄まるから」と言い放ったことにとても感心した。

それだけあって、聞けば人生体験が波乱万丈で面白い。

彼女の旦那に対して心底気の毒だと思いつつ。

自分は、その内容を反射的に活字にしたいと思うのであるから、

もう「本」に取りこまれた重病人なのだろう。

 

 


戦争は女の顔をしていない

 

スヴェトラーナ・アレクシエーヴッチの

『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読む。

 

第二次世界大戦時、ソ連での女性従軍者のインタビュー集だ。

戦後30年の取材である。

当時、彼女たちは、ティーンエイジの少女、

二十歳前後の女性だった。

驚くことに、志願兵で、無理やり前線に行った人ばかりだ。

実際に銃を持ち、ドイツ軍と戦った。

ドイツの将校が愕然とするほど、優秀な狙撃兵の女の子もいた。

彼女たちは、実によく戦ったのだ。

若い盛りのきれいな女性が、

殺戮のまっただ中に飛び込んでいくというのは、

日本の感覚ではちょっと考えにくい。

 

その動機は、純粋な祖国への愛情である。

だから、本書は、アフガニスタンの戦争

(『アフガン帰還兵の証言』)のような暗さがない。

戦場の恋もある。

青春記としても読めるのは、「祖国を守る大儀」が

強烈にあるからだろう。

もっとも、戦闘は残酷である。

あまりの悲惨さに、一日で白髪となった少女たちの記述も多々ある。

 

タイトルにある通り、

「戦争」はつくづく女のものでなく、男のものだと思う。

それは細部の文章に生き生きと描かれている。

戦闘直前、男性兵士は殺伐とたばこをふかすが、

女性兵士は刺繍をしている。

ある女性兵士は、男性兵士が銃などの兵器を「美しい」とする

感覚が理解できないと言う。

男性兵士は、湧き上がる攻撃心で、敵を切り刻むことができる。

残虐行為に走る。

女性兵士は、敵側の少年兵の幼さにあわれを感じ、

「憎みきれない」と思えた自分に安堵する。

女性兵士は男性兵士の敵側の女性に対する暴行を恥じる。

 

戦争中、男性兵士は、女性兵士を命がけでかばった。

だが、戦後、彼女たちは、男性兵士、

そして社会に見捨てられたと嘆く。

戦場に行った女性兵士は、いかがわしくみられたからだ。

青春を犠牲にして発揮した純粋な正義感が全否定され、

彼女たちは傷つき沈黙した。

閉ざされた心のうちを、

アレクシエーヴッチが、忍耐強く聞き出して本にし、

社会に放った。

その本は、今も強烈な賛否両論を起こし続けている。

作家は、故郷を追われ、外国を転々としているようだ。

 

上のイラストは、

本書の写真から、当時の女性兵士を模写したもの。

ボーイッシュな感じ。

目がすわっていて、どこか寂しげだ。

「戦争」を潜り抜けた眼なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鏡のおしゃれ

 

中学時代の一コマまんが/76


知的ジュース

中学時代の一コマまんが/75

 

 


備忘録

 

今、ベルーシの作家でジャーナリスト、

スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの本を

さかのぼって読んでいる。

ノーベル賞受賞者だから、本は手に入りやすい。3作しかないし。

 

上の絵、『フアガン帰還兵の証言』に出てくる

亜鉛の棺をイメージしたもの。

戦死したソビエト兵士の遺体が家族の元に届けられるとき、

亜鉛の棺でやってくるという。フタは開けられないようになっている。

遺体のひどい状態を家族に見せない、

「戦争の実際は公表しない」というソビエト為政者の欺瞞の象徴である。

 

本書は、すべて証言で構成される。

兵士はもちろんその家族の言葉を丹念に文章化している。

アフガニスタンの戦争は、当時のソビエト人にとっては、

異国に侵略する大義のない戦争になってしまっていた。

若い兵士が、人を殺戮し、自身も殺戮されに行った

悲惨な戦争だ。

同時期に行われていたベトナム戦争と同じ。

 

その内容はもちろん、

「書き方」に、とても感銘している。

証言の一つひとつが、証言者の心情や考え、

いはば知情意がすべて表現されている。

経験の内容、その文脈、生身の身体の痛み、見た風景、

経験に対する個々人の解釈などが、

見事にまとまっている。沈黙、ためらいも書いている。

その重量級の証言がつらなると、

もう大河ドラマのような大きな歴史が見えてくる。

作者は自分の生の意見を入れてない。

証言より語らしめている。

 

ノンフィクション、ルポもの読むと、

書き手の意見で、取材事象をねじ曲げている印象を持つことが多い。

一方、ジャーナリストの書く文は、価値観で断罪してしまったり、

事実の分析ばかりで心に届くことが少ない。

「知意」はあるが「情」がない。思想がない。

自分も細々、人の話を聞いて、ささやかな文をまとめているが、

もう駄文ばかりだ。

捻じ曲げて、加工している。

文脈しか、伝えてない。

言い訳すれば、話し言葉と書き言葉は明らかに違うので、

インタビューした人の話した真意、

エッセンスを文にするのは本当に難しい。

 

アレクシェーヴィッチの手法は、

文学とジャーナリズムが完全に調和している。

演出や圧縮・加工はしているのだろうが、

証言者の言葉を殺菌していない。

 

証言もので感動したのは、宮本常一の『忘れられた日本人』、

柳原和子の『「在外」日本人』か。

でもその話は個人個人で完結している感がある。

アレクシェーヴィッチの手法で似ているのは、

ドキュメンタリーでアウシュビッツを

インタビューだけで描いたクローズ・ランズマンの『ショア』か。

本当に描くべきものは、書き手の主観でべったり

塗りつぶしてはいけない。

書き手の主観は、

描く世界の広大さに比べれば、塵のこどく。

 

500人ほどにインタビューして書くような

何かを書きたいな。

 

 

 

 

 


後ろ風の利用

中学時代の一コマまんが/74


テレビ先生

 

中学時代の一コマまんが/73


光をためる箱

中学時代一コマまんが/72


「なんじ」よ、今日は曇りで涼しい

 

マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』(岩波文庫)を

読んでいる。

ブーバーは前世紀に活躍したオーストリア出身の

ユダヤ系宗教学者だ。

 

目がしょぼつくほどに難しい哲学文章だが、

詩的なふくらみがあって惹かれる。

 

人間は二つの「根源語」を持っているという。

<われ−なんじ>と<われ−それ>だ。

「なんじ」は「神」と言い換えていいが、もっと広い概念のよう。

「それ」は「あれ、これ、彼、彼女…」と具体的な対象物、

物質界の存在を指す。

 

<われ−なんじ>が対話して初めて

「われ」は存在し、浮かび上がって出来上がる。

「なんじ」は無限のもので、存在の根本というか、

エネルギーというか…言いにくいが、

実感としては分かる。

 

通常、日常生活では、

<われ−それ>の対話となる。

これが欲しい、あれをこうしてああして、儲けて食って…

という物欲の生活となる。

<われ−それ>しかない人もざらにいる。

 

ただし、人は<われ−なんじ>の関係のみに

生きるわけにはいかない。

<われ−なんじ>はいつも一瞬に輝いて消え、

<われ−それ>がすぐにグリグリせり出してくる。

 

この本で面白く思うのは、

「関係性」がなにより大切だ、と言うところだ。

<われ−なんじ>にしろ<われ−それ>にしろ、

「われ」は、相対する「なんじ」「それ」と

関係しないと存在してこないということだ。

 

仏教やヒンズー教など東洋系の宗教は、

真の自己、宇宙は、自分の中にあるか、

宇宙の方に自己が吸い込まれる形で、

「われ」「なんじ」が一体化してしまう。

 

だが、ブーバーの説く精神の在り方は、

二つ溶け合わずに、相対する。

これは一神教の思考回路だ。

今、この「関係性」にとても興味がある。

「なんじ」に「我」を開いて語り合えればと思う。

 

 


変化

中学時代の一コマまんが/71


| 1/4PAGES | >>

このサイト内を検索

携帯ページ

qrcode