じわじわ酔えるゾ、ワイン

 

ビタミンもとれるかと思って、

1.5ℓペットボトルのワインを買う。

値段も800円前後で手ごろである。

 

アルコール分11%なので、じわっと酔えるのがよい。

ただ、飲みやすいので飲みすぎる。

甘ったるいので、なんとなく

ケーキでも食べてる気分になる。

 

食事酒でもあるので、

レトルトシチューとパンの組み合わせで、

夕食に試してみようと思う。

 

安ものワインは、

体によいのやら、そうでもないのか。

 

 

 


「勇者」とは

 

キネカ大森で見たもう一本のグルジア映画『みかんの丘』について。

監督はサザ・ウルシャゼ、

2013年にエストニアとジョージアで合作された。

ちなみに現地「ジョージア」は、日本では「グルジア」と呼ぶ。

 

ジョージアのアブハジア自治地区で、

みかんを栽培するエストニア人集落の話だ。

ジョージアとアブハジアの間に紛争が勃発し、

多くのエストニア人が帰国するも、

みかん箱づくりのイヴォ爺さんとみかん農家のマルゴスは残る。

 

映画冒頭、彼らの自宅前で、戦闘が起こり、

兵士たちが何人も死に、二人は、死者を弔う。

そしてイヴォ爺さんはなんと、

生き残った二人の敵味方の兵士二人を、自宅で介抱する。

 

イヴォ爺さんがやっていることは、戦地ではリスクが大きすぎる。

しかし、目の前で傷ついた人を介抱するのは、

人として当たり前というわけである。

癒えかかると、当然兵士たちは罵り合い一触即発となる。

 

兵士は性格も経歴も対照的な設定だ。

ジョージア人兵士は演劇人の独身インテリでキリスト教徒、

アブハジア兵士はチェチェン人の傭兵であり

家族持ちの労働者層のイスラム教徒。

いがみ合ってるとき、ジョージア人兵士は、

歴史を知らないアブハジア兵士の無学をなじる。

知的な歴史認識によるナショナリズムが諍い元であることを

映画はさりげなく描いている。

だが、イヴォ爺さんの毅然とした人道主義に、

二人の兵士も感化され、やがて友情さえ芽生える。

 

数日後、アブハジア兵士の集団がやってきて戦闘となり、

生き残ったのはイヴォ爺さんと

イスラム教徒のアブハジア兵士だけとなる。

アブハジア兵士は、ジョージア人兵士の援護射撃に助けられた。

そして、

イヴォ爺さんはジョージア人兵士を自分の息子の墓の横に埋葬する。

ここで初めて、息子の墓守りのために、帰国しないことが明かされる。

しかも息子は、戦争でジョージア人に兵士して殺されたと言う。

アブハジア兵士は驚いて、なんでエストニア人である息子の墓の横に、

敵国人のジョージア人を弔うのかと尋ねる。

イヴォ爺さんは、と問い返す。

「ジョージア人、エストニア人と、

いったい何が違うのか教えてくれ」と。

アブハジア兵士は「分からない」と言わざるを得ない。

 

「人間」という地平でみれば、「なに国人」「なに民族」と区分けして

殺し合うなんて愚かじゃないかというわけだ。

イヴォ爺さんは、その信念を、四の五の言わず、

また雄弁に語るでもなし、一庶民として、淡々と、

命がけで実践するところに

真の「勇者」を見て泣けるのである。

 

歴史、思想、宗教を相対化し、

異人であれ「人」として隣り合って生きよという映画が

ここにも一本生まれて、少し希望を感じる。

 

 

 

 


「親子」の寓話

 

友人とキネカ大森で上映するグルジア映画を2本見る。

 

まずギオルギ・オヴァシュヴィリ監督の

『とうもろこしの島』から。

戦争状態にある地域に流れる川の中州に、

爺さんが、とうもろこしを作りつつ、

両親を亡くした孫娘を育てるという筋だ。

 

まっ平の中州に、爺さんは、

掘っ立て小屋を自力で立て、勤勉に土を耕していく。

横には思春期の少女である孫娘がかいがいしく仕事を

手伝う。

 

この映画にはセリフがほとんどないが、

親(爺さん)と子(孫娘)の充実した愛情ある生活が、

激しく「働く」動作を通して伝わってくる。

関係性の土台がしっかりしているのだ。

爺さんはたくましい生活者であり、

その力と知恵のありったけで、子を育てている。

だから子はその先導者を尊敬し、信頼している。

 

この狭い中州は、人生の寓話の場だ。

周囲は危険でいっぱいである。

危ない外界(=戦争状態)に丸裸でさらされ、

たえず外部の事件と闘わなければならない。

娘がどんどん美しくなるにつれ、

今度は内部から生活はあやうくなる。

川岸の兵士が彼女をからかったり、

爺さんがかくまった兵士に

若い彼女自身が興味をもったり。

爺さんはそのたびに、怒り、威嚇し、

未熟な彼女を男たちから守る。

 

孫娘の鬱屈も、映画はさりげなく描いている。

とうもろこしの収穫の際、手を切って血を流し、

こんな生活はもう嫌だと、声をしのんで泣く。

それを爺さんが、とうもろこしの影で見ている。

いいシーンだ。

 

ラスト、大嵐となる。

爺さんは孫娘と収穫したとうもろこしを乗せた

船を川に押し出す。

とうもろこしは、爺さんと孫娘の努力の結晶であり、

孫娘の未来のための財産である。

そして爺さんは崩れゆく掘っ立て小屋に埋もれて消える。

娘は、外界へと旅立った。

親子の縮図がある。


クリスティーナへ、ユア・ソング

 

アメリカのシンガーソングライター、

クリスティーナ・グリミーが、

去年の6月に亡くなっているのを知ってショックを受ける。

コンサートの後、熱狂的な男性ファンに射殺されたという。

享年22歳である。

 

ユーチューブで、ティーンの頃のクリスティーナが歌う

カバー曲を聞いて、ベラボーなうまさに驚愕していた。

すでにアクセス数が何百万何千万で、

プロデビューは

確実なんだろうという貫禄ぶり。

 

この人は、やんちゃな女の子という感じだが、

歌えばたちまち入魂の境地に達して、

聞く者を吸い込んでしまう。

生きていれば、

スーパースターになる存在だったのだろうな。

 

彼女が歌う一番好きな曲、Your Songを、また聞こう…。

https://www.youtube.com/watch?v=-XFBT5iAA44

 

 

 

 

 


映画『沈黙』を見て

 

二週間ほど前に、マーティン・スコセッシ監督の映画

『沈黙−サイレンス』を渋谷の映画館で見る。

遠藤周作の『沈黙』が原作である。

江戸時代が始まってしばらくの頃のキリスト教弾圧を

描いた作品だ。

 

映画は、その原作に忠実だなという印象だった。

「井上さま」こと井上筑後守を演じる

イッセイ尾形は、やはり大した役者だと思う。

表は笑顔の絶やさない温厚な好々爺だが、

その裏は冷徹な為政者である二面性を

じわーっと演じて凄みがあった。

 

井上さまは、元キリスト教徒であったから、

西洋からやってきた司祭を「転ばせる」、

つまり転向させるのに、悪魔的な奸智を使う。

逆さ吊りにしてじわじわ死に至らしめる

日本人の信者を目の前にさせ、

「彼らを救いたくば、廃教せよ」と迫るのだ。

キリストの教えに忠実であるほど、信仰を捨てざるを得ない。

なんたる破壊的かつ神学的な心理的拷問であることか!

 

この作品には、命題が満載だ。

日本人にもたらしたキリスト教の影響や

キリスト教の本質に迫るドラマがある。

だが、自分が一番興味深く思うのは、

日本という国の排外主義の体質は

江戸時代の初期にくっきり出ているということだ。

また為政者の断固とした圧政の姿だ。

井上さまがそのシンボルである。

当時の徳川幕府による異教徒弾圧は、

西洋列強の植民地主義を防いだ、という意味では

歴史的に正解だったのかもしれない。

 

だが、日本の排外的体質は、

今にずっと続いている。

異論を唱えれば、断固としてつぶされる。

同調すれば、これだけ住みやすいところはない。

 

そんな日本に、

キリスト教は、「個」という考え方をもたらした。

このことによる混乱も、

やはり今に続いている。

 


スケール感

 

六畳の私の部屋は、狭いのだろうか?

「自分」という意識を、

机の上の消しゴムのカスの一つに集中してみる。

そうだ、私は、消しゴムのカスだ。

 

とたんに、机は広大な平原となり、

本箱は天空に聳え立つ高い高い壁となる。

居並ぶ本たちの、なんと重々しく巨大なことよ。

そして時に突風が吹き付ける。

以前「私」であった、バカでかい生き物が、

フーッと息をふきつけてくるのだ。

ああ、

消しゴムの私は、

目もくらむ奈落の底、

むやみに広い大陸のような

フローリングの床へ向かって、

延々と、

落ちていく、墜ちていく、堕ちていく…。

 

と、自分のスケール感を変えれば、

空間は自在に伸び縮みしていく。

なんと奇矯なことをお前は言うのか、

という人もいるかもしれない。

 

いゃあ、こんなことは誰でも普通にやっていることだ。

何か、冒険ものの小説でも手にとって

読んでみたまえ。

荒れ狂う海や乾ききった砂漠や

うっそうとした密林があなたをすぐに取り囲むだろう。

たとえ独房にいようと、

茫漠な空間が目前に広がっていくことを

止めることはできない。

 

 

 

 


エロティシズムの被膜

 

ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』を

読んでいる。

 

「エロティシズム」を解く一つの鍵として、

「生殖は非連続の存在に活(かつ)を入れる」とある。

本書では「非連続の存在」とは、

個々生きる生命、また「私」や「あなた」を思い浮かべればよい。

対極の「連続の存在」とは、「死」となる。

「非連続の存在」が広大な宇宙空間に溶けてしまった感じだ。

 

生殖は、「非連続の存在」がつながることで、

一瞬「連続の存在」となり、その時、

エネルギーが充溢し放電するような状態をイメージすると

何となくバタイユの言うことがつかめたような気がする。

 

これは別に、生殖に限らず、思考も同じではないか。

脳にある神経細胞(ニューロン)は個々離れており、

「非連続の存在」である。

その末端で向かい合ったシナプスという中間地帯に

バチンと電気が流れて「連続の存在」になった瞬間に

情報がドッと流れ伝わるのだ。

 

「非連続の存在」というのは、

薄いスポンジ状の被膜をまとった

存在と考えてみる。

その細かな穴は、外界とつながっていてる。

穴が大きすぎれば、破れてしまい、

「連続の存在」に、つまり死んでしまう。

この穴を絶妙に閉じたり開いたりして、

外界にいる「非連続の存在」である「他者」を吸い込む度に、

ボワンと輝くことが、

「生きる」ということでないか。

 

 


1日のリズム

 

一日の気分を、横並びの山にしてみた。

高さは同じとする。

 

朝はピンクで、絶好調。

昼は橙で、絶好調も落ち着いて、正常心。

夜はくたびれた黄色で、夕飯あたりがピーク、あとは酒飲んで寝るだけ。

 

この三拍子、うまくいっていれば、

調子がよいが、

夜更かししすぎたり、だれたりすると、

つらくなる。

 

123、123、123、テンポよく、123、

太鼓叩くがごとく、123、123…。


階段が錯綜する家

 

巨大な家の中にいる夢を見る。

何千畳の板張りの空間の右手に、

階段がまっすぐ上の部屋に伸びている。

左手は部屋なのだろうが、いくつか分からない。

 

階段を登ると、それは上がったり下がったりして

いろんな部屋がつながっている。

今まで住んだ家や、行ったこと旅館などの部屋が現れ、

懐かしく楽しい気持ちがこみ上げてくる。

 

上につながる階段を果敢に登ってみる。

そのうち、空気が薄くなってきて、

階段は細い白い筒の中に包まれている。

やっとこさたどり着いた部屋は、

天空の中にポツンと一つ浮かんでいて、

ドアを開けて入ると、

雑然とした六畳ほどの部屋だった。

 

なぜこんな夢なのかと思うと、

寝しなに、自分が思いつくが切りの巨大な家を

妄想で設計したからだろう。

これは結構、楽しい遊びである。

おススメしたい。

住宅ローンも一切不要であるし。


ヒリつく

 

夜、何度も目が覚めて、水を飲む。

喉がヒリついて、いがらっぽくなるほど喉が渇くのだ。

舌にも水分がなく、口内にベタリとからみつく。

水を注ぎ込んでゴクゴクやれば爽快にはなるが、

しばらく寝ると、また乾きがやってくる。

それで水を飲むと、腹がポタポタポしてくる。

次の渇きが控えているのを漠然と感じる。

 

なんだか、コップの水を、体を揺らし続けてつっつく、

小鳥の人形になった気がしてくる。

 

きっと味噌汁を濃い目にしてしまったせいだ。

塩分統制をしないといけないなぁと思う。

 


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