2007年の私

 

以前勤めていた出版社の建築ジャーナルの

書籍即売会に行く。

2015年までの冊子が100円というので、

かつて自分が編集した2007年号を2冊買う。

 

表紙写真を写真家とともに考えた。

設計事務所の「人材育成」がテーマなら、

「鉄は熱いうちに打て」という格言を思いつき、

鍛冶場を探して、文字通り鉄を打つ現場を撮影。

住民参加型コンペの設計者を、

突如行政が解約したことに対する

建築家たちの集団訴訟の特集では、

壁に亀裂が入った岩場の前まで行った。

立ちはだかった「壁」を砕けという意味で。

 

30代後半で、

編集の仕事がつかめるようになっていた頃だ。

ページをめくると感慨深い。

 

建築ジャーナル即売会は、本日11月30日18時まで。

http://www.kj-web.or.jp/

 

 

 

 

 


厄除け「ボー然会」のススメ

 

もうすぐ忘年会の季節。

巷では、スーパー銭湯やキャンプで忘年会をするのが流行りという。

でもそれって、基本的に楽しく騒ぐこと。目新しくもなし。

 

ここで、より画期的な新時代の「忘年会」を提案しよう。

「ボー然会」だ。

参加者は、ただ黙って自分の酒を飲み飲み、茫然とする。

その年あったあの失敗、あの「やっちゃったー」を、

みんなと一緒に瞑想しつつ、後悔し、嘆き、ボーッとなる。

負のオーラを思いっきり出し切ることによって、

心はスーッと晴れるはず。

 

「今年は、何か変なことしたいなぁ」と思う幹事さん、

ぜひ検討してみてね!

 

 

 

 

 


野生人たる誇り

 

新文芸座にて、台湾映画『セデック・バレ』を見る。

 

1930年、日本統治下で起きた台湾原住民にによる

抗日蜂起「霧社事件」を描く。

 

頭目モーナ・ルダオ率いるセデック族らが300人が

現地の日本人小学校の運動会を襲撃し、日本人約140人を殺害。

多くの女性や子供も含まれる。

その後、日本側は軍隊を差し向け鎮圧に向かうも、

原住民戦士のゲリラ戦に苦戦、多くの犠牲者を出す。

しかし大砲、機関銃、航空機、毒ガス弾などの近代兵器に

かなうはずもなく、部族は鎮圧された。

 

この事件は、日本の歴史教科書や一般の歴史書には

まったく出てこない。

 

この映画は、徹底してセデック側の視点での物語だ。

彼らは狩猟民族で、縄張りを荒らす敵部族の

首をかる習俗を持つ誇り高き人たち。

「文明」を盾とする日本の侵略に、

全存在をかけて抗する。

 

頭目モーナ・ルダオも部族も、日本に

歯向かえば部族が全滅することを十分理解していた。

男の戦いを支えるため、女性たちはわが子を殺し

木に首を吊って集団自決。

「虹の向こうでまた会おう」と、

家族総出で死出の旅に。

 

彼らが戦った理由は、「誇り」。

日本に隷属して生きる道を潔しとしなかったのだ。

 

一方、映画に出てくる日本人は、とても卑しい。

組織力をバックに威張り、権力を振りかざす。

そのくせまなっちろく、一人ではなにもできない。

セデックは、野生の精悍さにあふれ、

生き生きと誇り高く生きている。

映画には、「文明」は人を堕落させるのか、という

問いも織り込まれている。

 

ラスト、鎮圧した側の日本人えらいさんが、

セデックの戦いぶりに感嘆し、

「彼らは、日本人が失った100年前の武士道の心を持っていた」

と言う。

 

潔く死ね、という武士道ってなんだと思う。

セデック側の人も、セデック側の組織の論理で、

生きたいという気持ちを

圧殺された存在ともいえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


薔薇に切り裂かれ…

 

 

…と、言えば、何か詩的な気もするが、

ろくでもない。

 

急いである歩いていると、よその家の軒から出ている

枯れた薔薇の枝に、ダウンジャケットが引っかかる。

バリバリと派手に音をたて。

 

気が付けば遭遇した満員電車内で、

中身の羽が飛び出てフワフワ。

通勤中の紳士淑女の衣服に着地してしまう。

気まずい。


ある問いを立てた映画

 

東京国立近代美術館フィルムセンターにて、

ポーランド映画『アウシュウィツの女囚』を見る。

1948年制作だから、この映画は「アウシュウィツ」の実態を

告発したかなり早い時期の作品になる。

 

強烈な印象を受けたのは、映画冒頭のシーンだ。

 

どんより暗い空の下にある収容所のぬかるんだ地面に並ぶ

女囚たちの姿だ。寒くてみんな疲れ切っている。

一人の女囚が弱って崩れ落ちる。

どうも妊婦らしい。

列を崩したことに怒った班長の女が、

集団責任だと囚人全員が、官舎に入ることを許さず

許可するまで立っていろという。

すると女たちは、妊婦を支え、腕を組み、

左右に体をゆらす。

吹き曝しの冷気と極度の疲労が少しでもまぎれるのだろうか。

その無言の運動が、巨大な生き物の塊みたいに見える。

理不尽なことに対する怒り、抗議、

あるいは悲しみ、生きることへの執着、そして団結。

いろんな感情が画面から押し寄せてくる。

なぜなら、彼女たちの背後に立つ煙突が、

彼女たちの存在を全否定しているからだ。

そこから陰鬱に立ち上る煙は、

ユダヤ人の死体の粒子である。

 

この映画は、ナチスや彼らに協力する人々の悪の醜さを露呈させ、

女囚たちの勇敢な抵抗を描いて、救いの要素を入れている。

だが問いは、ここから始まる。

なぜ、こうしたことが起こるのかと。

以後、「アウシュウィツ」をテーマにする映画群が、

この問いを反復していくことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 


あと、1分で外出

 

寝坊。描く時間なし。朝の空、うっすら赤し。手、かじかむ。


私は「米」で、できている。

 

自分と同年代のおじさんたちが、

ダイエットや健康のために、米を食べない、

という人が増えている。

代謝の落ちた中年の体には、炭水化物の取りすぎがよくないという。

 

しかし、私は、ガンガン食べる。

時に、わざわざおにぎりを作ってかぶりつく。

調子の悪いときはお茶漬けで、

嬉しいときはお餅を煮たり焼いたりする。

 

経済的な効率性もある。

ブレンド米なら5キロ1400円で、2週間もつ。

野菜や肉をそえれば、十分これで生きていける。

 

本当は、五穀米とか玄米なんかがいいのだと思う。

切り替えたとたん、魚や発酵食品が美味しくなるそうだ。

味覚は素朴で、淡泊だから。

米はやはり、肉だのカレーだのハンバーグだの

強い味が大好きな、味覚の幼い者に合う。

私の舌は、ちっとも成長していないから。

 

ところで8時現在、雪が降ってきた。

東京にはこの時期、52年ぶりのことだそうだ。

もう少し時間がたてば、外はどんどん白くなるだろう。

 

ごはんをもっと食べて、

白い白い米人間になろう。

 


冷たい治安

 

真っ昼間の都心の地下鉄車内で、

椅子をおおいに占有して眠りこける青年あり。

 

周囲は、その厚かましき傍若無人を感じつつ、

避けているような雰囲気。

 

これが治安の悪い外国の諸都市であれば、

無造作に置かれた黒カバンは持ち去られ、

ポケットの財布は跡形もなく消えたろう。

 

日本は平和な国だなぁとつくづく思う。

だが、「あんた、みっともないから起きなさい」と

世話を焼こうとする人もいない。

自分も含め、みんな冷ややかに見ているのみ。

ようは、「かかわりたくない」という寒いムードが

ヒューヒュー漂うのは、やはり都心。

 

 

 


裸でウロウロ、大丈夫?

 

先ほど、ラジオで聞いたが、

別府市が、温泉遊園地のPR動画をつくり、

再生回数が100万回超えたら、そのプランを実現すると宣言。

 

改めて覗いてみると、

温泉付きのジェットコースターや観覧車が出てくる。

こうしたノリは大好きだが、実際の話となると

本当にできるのかなと心配に。

 

予算はあるのか、技術的に可能なのか、

第一野外の公園を濡れた裸でウロウロ歩けば、

風邪をひいてしまわないのか。

別府市民は、納得の上の提案?

 

以下、そのPR動画。

見てしまったら、一票、ということになってしまうが…。

https://www.fashion-press.net/news/27350

 


「偏見」の展開事例

 

東京国立近代美術館フィルムセンターにて、

1948年制作の東ドイツ映画『罠 ブルーム事件』を見る。

 

1926年にドイツで起こったユダヤ人商人に対する

殺人容疑裁判を映画化したものだ。

描かれる時代は、ワイマール期ドイツの反ユダヤ主義が

台頭してきたころ。

 

青年ガブラーは、保証金詐欺を働き、初老のブラッツァーを

殺害して大金を強奪。

捜査線上に浮かびあがり警察につかまるも、

でたらめな証言をする。

マフィアのボスのような輩に連れ去られ、

殺人を強要された…うんぬん。

一方、警察は、殺されたブラッツァーが

ユダヤ人工場主ブルームの脱税を発見し首に

なっていたことを知る。

そしてろくすっぽ現場の調査もやらず

短絡的にも、ガブラーを脅した人物こそブルームで、

脱税をあばいたブラッツァーを殺したと断定。

悪党であるユダヤ人ならやりかねない、

という偏見だけで、ブルームを逮捕し、裁判に…。

 

結果は、ベルリンの敏腕刑事の単独捜査で

ブルームの無実が晴れる。

この展開自体に、戦後ドイツのユダヤ人に対する贖罪を思う。

 

映画は、偏見の恐ろしさを淡々と描いて、

寒気をもよおわせる。

偏見は、根拠なしに、怒りや妬みなど、負の感情を

一方的に盛り上げられるから、

それをぶつけられた相手は防ぎようがない。

 

昨今、嫌〇〇とか、他国を一方的にやじる

ムードが漂っているが、状況は映画に似る。

他民族、他国に対する偏見は、

自国の歴史観からくるので、ある意味実証が完全ではない。

他民族、他国にも自国の歴史観がある。

その隙間に憎しみが巣食えば、燃え上がるしかない。

 

偏見を撃退するのであれば、

もっと下の岩盤である、「人間」の歴史を見なければ。

人間、あるいは人間集団は、

戦争などの負の社会事象で、いかに恐ろしくゆがむのか、

冷徹に分析し学ぶことが大切。

映画は、その良き学習手段であり、

最適な教材がいくらでもある。

 

 

日記として、

映画館で友人と会い、後、酒を飲んだことを記す。

 

 

 

 

 


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