「仕事」というもの

 

集英社『世界写真全集 第3巻 フォトジャーナリズム』より、ユージン・スミスの写真「カントリー・ドクター」(1948年)のラフ模写。頭を怪我した子供の手術が終わって、コーヒーで一息つく医師。一つの命を救った安堵感と、厳しい仕事の後の放心状態が伝わって良い写真だ。この第三巻は時事写真を集めたもので、悲惨な戦争シーンも多いゆえに、しみじみする。

赤唐辛子の畑

 

憂鬱な夢の後の次の展開。インド系の女性が、寝転がりながら、木の板を使って赤唐辛子を並べている。赤い帯が延々と広がる原色の風景。華やいだ感じ。遠くで風車が回っている。夢解きしかねる夢。

異質な世界

 

マリー・ローランサン「白い羽根飾りの黒帽子をかぶった乙女」のラフ模写。この画家は女性だから当然なのだが、本当に女性らしい絵を描く。造形や色が、画家の存在そのものの内から立ちのぼってくる香りのようで、男の自分にとってはまったく異質な世界。

髭の子ども

 

ルソーの子供の絵のラフ模写。色をまるっきり変える。実際の絵は、から、青空、赤い服、緑の花園なのだが。この画の第一印象が、「髭の生えた子供」。それはつまり、自分のことではないかと思い至り、ゾッとして青系の色に。いつまでも歳を取らない永遠の子どもの心なんて、不気味なものである。

新参者が暴れる

 

晴れていたかと思うと、急に空がかき曇り、ホダホダと水滴が落ちてくれば、たちまち太い水の線となってこちらに叩きつけてくる。一点集中型のスコールがすごい。これではまるで熱低雨林。洗濯ものが干せない。

侍ジャパン、ふるわず

 

三鷹市に雹が降ったことに比べれば、侍ジャパンがコロンビアにボロ負けしたのはたいしたことではない。少なくとも「侍」の如く、全力で戦って、桜のように散ったまで。東京都議(自民党員)のセクハラ発言に憤った外国人女性記者が、「発言した都議は、日本の侍ではない」と言った。潔さでは侍ではないが、男尊女卑で言えば侍かもしれない。侍といえば、自分の集団の維持にしか興味のない武装集団で、こんな奇妙なものを日本文化の代名詞にすべきではないとつねづね思っている。戦争する国の準備に余念のない自民党は、侍であり、侍であるかぎり、本音のところは女性を斬って捨てる存在ではないかと勘繰っている。東京都議自民党のヤジは常日頃の侍体質の表れではないか。侍ジャパンは、「侍」の冠をとっぱらって、「自由人ジャパン」とでも名乗ってのびのびプレーしてほしい。

正義の像



広告コピーを書いた毘沙門天の像。悪鬼を踏みつけにして、後光を輝かせている。仏教を信じた古の人は、こうした神像を、天災や病など不条理な災難というヤクザをやっつけてくれる警察官のような感覚で崇めたのだろうか。しかし悪鬼はどことなく愛らしく、悪い奴にも思えず、むしろ彼らは日本古来の神々で、仏という権力者に組み敷かれた被害者だと手塚治虫の『火の鳥』が描いていたのを思い出す。仏像やその周辺の神像は結構好きだが、時々ふっと感じる威圧感に反感も覚える。
 

ざっくりやられたぁ〜

 

友人らと、東京ステーションギャラリー開催の「ジャン・フォートリエ展」に。フォートリエは、フランスの画家で彫刻家。ドイツ軍ゲシュタポの手を逃れ、戦時体験をもとにした連作に取り組む。上の彫刻作品は、1942年作の「悲劇的な頭部(大)」。戦争で凶暴化した社会は、柔らかい人間をえぐる。

青の春

 

吉原治良「海の女神」(1931年)の模写。吉原は、中期から抽象画になり、晩年は悟りの境地に近づいたのか〇(円)ばかり描いた画家だ。若い頃はブルーを多用した具象画が多く、こっちも結構好きである。中でも上の作品に魅かれる。ギリシヤの神だろうか。明晰な感じがいい。「知」を知り始めた若い文明の香りがする。今の文明の顔は、目の下にクマをつくり血走った眼の錯乱した表情になるような。

コォ〜ル!!

 

身も凍〜る!! ザックジャパンが、あまりふるわない日本のムード。それを、丸めたタオルの国旗で表現してみた。あるサッカージャーナリストが、「日本選手は相手と刺し違える勇気がない」と責めていたが、そりゃあ言いすぎだろと。体をさらしてやってる選手本人が一番大変なわけで。また、しょせん玉蹴りゲームじゃないか。と、言ってしまえば身もフタもなく、それはそれでつまらないか。

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