道、

 

黒く、

いつか来た道なのか?

 

写真家・ウジェーヌ・アジェが1900年に撮影した、パリの小路の写真を模写。5才の時に見た夢の風景と似ている。夢の中でもやはり5才の姿だが、その土地の人間のようにベレー帽と皮のチョッキを着ていた。その時は夜で、街灯が灯っていたっけ。

都知事選候補者、多すぎる!

 

東京都知事選挙の選挙公報を見て、その候補者の多さに驚く。なんと16人! 誌面では、公約の違いよりも、文体やレイアウトのトーンのバラバラさに「えっ?!」となる。手書きでしかもプロフィールを書かない人、宗教めいた語句を使う人、強迫観念的なエピソードを入れる人…。当選を狙うなら、ありえない書き方だ。テレビやマスコミが取り上げる大物候補が大量の票をさらうだろうが、それにもめげないドンキーホーテ的な人は結構いるんだなと思う。どんな人でも自由に立候補できるというのは民主主義社会の基盤たが、その上で売名行為も信念もごちゃごちゃに絡み合う選挙とは、なんと泥臭いというか、人間臭いというか。

カッコウの知性

 

『生態』の本を読む。自分で雛を育てないカッコウは、ヨシキリの巣に自分が生んだ卵を忍び込ませて育ててもらう。その際、ヨシキリを騙すために、卵の模様を真似るという。擬態というやつだ。そこまではいい。しかし大きな疑問がある。カッコウは目でヨシキリの卵を観察し情報を得たとしても、それをどうやって自分の卵に映すのか。またどうやって映すシステムを体の中につくれたのか。カッコウに知性があるわけではない。あったとしても、相当高度な技能が働いてるはずだ。人間だって、生まれる子の顔を、好きなタレントに似せて産めるわけもない。だいたい擬態をしようっていう戦略は、知性がないと立てられないのでは。カッコウの種全体に知性があるのだろうか。生物の世界は本当に謎。

臆病で冷めたギョロリ

 

能面の彫刻家・大塚亮治が彫った創作面「茸」を模写。狂言「茸」のために作られた面で、椎茸から発想したものだという。この顔を最近見た。年金機構のお金を20億円か横領して豪遊して逃亡の末、タイで捕まった中年男の表情である。タイの空港で記者に囲まれうつむく男が、ギョロリと目を上に向け、気弱に周囲をうかがうアップの映像があった。その臆病な目つきが、この面の目つきと同じ。自分の立場を冷静に判断して、他人との距離をはかろうとしている狡猾さも感じる。木に寄生して生きる椎茸にあの男をだぶらせたら、椎茸に失礼か。

もこもこ「も」

 

かな踊り5/「も」はもりもり書くとお芋みたになる。怒りなど、熱くなる感情を含みやすい「もうっ」だが、やわらかい響きにもなる。「もぅ〜♥」とハートマークをつければ、華やぐ感じに。

「の」の否定形の「め」



かな踊り4/ 「め」いえば「目」だ。その形もまるで「目」。でもなぜか猫の目を連想。猫はどこか夜の動物で裏世界を歩くネガティブなイメージがある。「め」は、のほほんとした「の」に斜め線を入れてばってんと否定している。「め」は立派な否定形。だから目は、裏まで見通しての目なのだ。目は閉じてこそ心眼となって真贋を視る。このシリーズ、「も」までやってみよう。

感情鬱屈の「む」



かな踊り3/チェーン店で買い物をしていると上の光景。スタミナドリンクの音声広告で、人が通るとセンサーで反応する。なぜか「む」にイラッとする。「む」は感情をためる音だからだろうか。腹立つことを言われて「むうっ」とする、胸が「むかむか」する、「ムズカシイ」と頭を抱えるなど。こんがらがったものが内部で充満して膨れ上がって悩ましい、そんな「む」。川平氏に言い返してやろう。あんたの「むむむっ」が「むむむっ!」。それで気持ちが「無」になった。

おお「み」え



かな踊り2/くいっ、ぐるっ、にょーん、ぐっ、ささささっと、大見えをきる「み」。「どうだっ!」というかんじの「み」。結構、目立ちたがり屋の「み」。みんなを意識する「み」。民主主義の「み」。実からはみ出て、たわわにみのる「み」。ミンミンミンミーのせみのごとく、元気溌剌な「み」を心に持とう。

調整役

 

かな踊り1/間に入って「まあまあ…」と言う「ま」。調整役の「ま」。その「ま」が抜けると、全体が「まぬけ」になる「ま」。「ま」がぬけた方が場が和む場合があり、わざわざ退場する奥ゆかしい「ま」。でも大事な場面でぬけると、シャレにならない「ま」。「ま」がないと芸がつまらなくなる「ま」。意外と重要な空気のような「ま」。自由に出し入れできる「ま」を、いつも身に付けておこう。

| 1/3PAGES | >>

このサイト内を検索

携帯ページ

qrcode