ぶざまなきれいごと

 

川上未映子著「ヘヴン」48/辛辣である。「相手の立場」を言うのはきれいごと。それを突き詰めて、殺される牛の気持ちを考えれば食事もできない。どいつもこいつも善悪の理屈や規範は単なる建前で、適当に自己都合で生きている。人間の幸福は欲望の充足、につきる。その欲望を存分に享受するなら、弱きを叩く強者になるべきだ。という力の論理は、渡世を生きればありふれた現実。百瀬は、少年らしい潔癖さで、その醜い現実を強烈に軽蔑しているのかもしれない。だが彼は己の欲望にムカつきながらも、「強者」ヘの道を見定めている。解としてシンプルだからだ。善を口にしてぶざまな偽善に陥るよりは、欲望ありきの人間観に徹する方がクールである。百瀬ほど頭が切れてドライなら、将来相当「成功」すると思う。その態度を貫くならば。



妹想いの排他性

 

川上未映子著「ヘヴン」47/意外な感じもするが、百瀬は妹想いのお兄ちゃんだった。しかし、身内を「自分」のエリアとすれば、百瀬の主張は矛盾しない。身内と他者は関係性がないのだ。家族一族を他者という外敵から守り、その利益を優先させてきたのは、古来から人間がやってきたことだ。身内意識を広げれば、例えば異国の地での同郷人、同一民族のまとまりにもなる。敵になりうる、わけのわからない他者の立場に立ち、その気持ちをくみ取り行動する、というのはある意味偽善だ。それを百瀬は鋭く見ている。

生への嫌悪

 

川上未知映子著「ヘヴン」46/とてつもなく覚めた少年、百瀬。人のあらゆる行為は無意味だと感じている。行為にまつわる評価や感嘆、真偽の議論などは、すべてつまらないおしゃべりだと。行為の元になっているのは、ただ生きるという欲求にすぎないと考える。その欲求に百瀬は恐れを抱く。欲求が求める行為がどんなにくだらないものに思えても、自分ではセーブできず、それに突き動かされてしまうからだ。彼は生きることに深い嫌悪感を抱いているようだ。彼にとって苛めは、暴力をふるいたいとする単なる欲求の現れ。そして他者の痛みが自分にどう伝わらないか、の残酷な実験のようにも思える。

自分と他者は違う世界の住人

 

川上未映子著「ヘヴン」45/人は各々完結した世界の住人であり、他者のことなど所詮理解できるはずもない、というのが百瀬の世界観。確かに人は他者の考えや感情を、あくまで自分はこう考え、こう感じるから相手もおそらくそうだろう、との類推で推し量っているにすぎない。だから、自分が正しいと思うことは自分だけの価値観からの判断ともいえ、その同意を他者に求めても、別の価値観を持つ他者は拒絶することも当然ある。だから百瀬は、「僕」が苛めに対する苦しみを訴えても嘲笑う。苛められるのがいやなら、「正しい正しくない」と相手に詰め寄る前に、自分でなんとかしろと(抵抗せよと)。分かりあえない他者から身を守るのは、自分でしかないと。

カダフィ大佐の悲しき咆哮

 

土気色の顔で退陣拒否の演説をするカダフィ大佐。勇ましい言動と裏腹に放心しているようにも見える。国の利権や富を一族で独占した権力の崩壊も時間の問題か。傭兵が国民に銃口を向け犠牲者が出ているのがムチャクチャである。アメリカもイラク戦争で傭兵を投入しているようだが、金で雇う民間人の軍隊ってなんなんだと思う。軍備に裏付けされた「国」という概念も変化している。いずれにせよステレオタイプの「独裁者」を地でいくカダフィ大佐は、もう完全に時代遅れなのだろう。

冷気

 

川上未映子著「ヘヴン」44/「行為は正しいからするわけではない」という百瀬の言葉に、「僕」は立ちすくむ。考えがうまくまとまらない。確かにそうだが、日常の行動と暴行とは並立する行為ではないはずだ(しかしその並立は、残念ながら珍しいことではない)。一方で百瀬たちは、善悪の判断をしっかりしている。「この行為は正しくない」と思いつつ暴行しているようだからだ。それゆえ、「悪い行為」を隠すことができ、教師などの他者にとがめられ、罰っせられるという不利益をまぬがれることができる。つまり、彼らには善悪に伴う良心の呵責や痛みなどの「感覚」がない、ということなのか。いや、「悪い行為」の罪悪感が、欲望をかきたてる、彼らにとって「心地よい行為」となるのか。

喧騒の中、大スター・パンダ来日

 

世紀の大スター、パンダカップルがついに上野動物園に到着。昨今、日中関係も、各々国内も何かとゴダコダしている中、パンダどころではないという向きもありましょうが、ここはパンダ外交、日中友好に乗ってみよう。これで上野周辺は繁盛、パンダグッズは飛ぶように売れ、癒しのパンダオーラで景気も回復! 中国名で、オスは「比力(ピーリー)」、メスは「仙女(シィェンニュ)。いい名前なので変える必要はないかと。

偶然の存在

 

川上未映子「ヘヴン」43/「僕」にとって斜視の目は、苛めの原因で強いコンプレックスを引き起こすと同時に、自分の心を形づくる重いものだった。しかし、百瀬にとっては、苛めの原因ですらなかったことに「僕」は驚く。単なる苛めの標的としての「記号」なのかもしれない。百瀬にとって出会う他者はみな偶然の存在で、何の関係性も生じない。かかわる時は、己の勝手な欲求(暴力をふるいたいなど)を都合よく解消してくれる道具のようなもの。苛める側の世界は恐ろしいほど平板で、画一的な個性しか許さない所ともいえる。

フェイスブック断層地震

 

1月15日、チュニジアで市民のデモが起こってベンアリ政権倒れ、イスラム社会に激震が走る。その余波で、2月12日、エジプトのムバーラク政権も崩壊。大規模デモのうねりはますます広がる。16日、リビアでデモ発生。その初日以来、カダフィ大佐政権下の弾圧で死者が70人に。そして中東バーレーン、デモでうろたえたハマド国王が、国民に見舞金をばらまくことを発表。イランへも飛び火し、14日、数千人規模のデモが発生。アフマディネジャト大統領、国外には強気を見せるが、頭を抱えているという。この一連のデモの背景には、インターネット、特にフェイスブックによる個人のつながりが、市民を連携させたことにある。つまり、地下のマグマで個々人が溶けて一つの塊になって社会を底から揺らし、そびえ立つ独裁者達をドミノ状に倒している。この状況を「イスラム圏フェイスブック断層地震」と勝手に命名。

苛める側の世界観

 

川上未映子著「ヘヴン」42/「僕」の正当な怒りの言葉への百瀬の返答は異様なものだ。まず、「僕」は自分の身体を選んで生まれ得ないということから人間の平等性を訴えるが、百瀬はこれを切って捨てる。「君と僕とは違う存在だ」と。「人は権利によって何かするわけでなく、したいからする」という彼の言葉にふと立ち止まる。己の欲望のストレートな肯定だが、それも一理ある。権利って何かを言い表せないと、百瀬の言葉には反論できない。無意味だからこそ、苛めは容易にできる行為で軽い戯れとする。またなぜ「僕」への苛めは「斜視」をターゲットの理由でないとするのか。百瀬の世界観が、また、苛める側の論理が、姿を現してくる。さらに彼の言葉に耳を傾ける。

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