因習を担う側の悲しみ

 

昨日、ブログで取り上げた映画

『少女は自転車にのって』の続き。

 

この映画は、女性であるマンスール監督の

自己批判を含むサウジアラビアの女性批判にも思える。

 

少女ワジダに対する印象的な女性は、

母と女学校の校長であり、彼女たちは伝統的価値にそって生きる。

それが因習に縮んだおばあさんでなく、

女ざかりの美しい人であるのが面白い。

 

家庭の母は、あの神秘的なチャードルをまとわず、

ジーンズ姿や赤いドレスも着る現代的な女性。

だが、古風なのだ。

あるとき、彼女は、知人女性に誘われ、病院の仕事を

紹介される。しかし知人が男性職員と親しく話す現場を見て、

その自由さが我慢ならず、仕事を断ってしまう。

一方で、夫が相談もなく第二婦人を迎える理不尽さを嘆く。

伝統的価値は、彼女を拘束し、苦しめている

 

女学校の校長は、キャリアウーマン風でパリッとしているが、

校風にたてつく少女ワジダを抑え込む権威者である。

男性に姿を見せてはならないつつましき女性像を、

女生徒たちに教え込む側である。

しかしこの女校長には、不倫のうわさが立つ。

決して完璧でない人間的な人ともいえる。

ワジダを叱るとき、私も昔はあなたのように反抗的だった

というセリフから、自由人ワジダと校長は反転した存在、

むしろ似たもの同士であるとにらむ。

頭の鋭いワジダも成人すれば、校長的になる可能性がある。

 

ようは、監督は、女性を苦しめる伝統的因習をかため、

になっているのは、当の女性自身であると

訴えているのではないかと言っている気がする。

 

この映画では男性の影が薄い。

一人、爽やかな印象を放つのは、ワジダの男友達の少年だ。

彼は、因習を打ち破ろうとするワジダの素直な味方である。

自転車を貸し与え、練習も手伝う。

同年代の男の子としては、浮いてしまう行動であろう。

彼はワジダに、「結婚しよう」と告白する。

 

監督は、ワジダの想いや行為を、

また、因習にとらわれた女性が解放されることを、

アッラーの神が祝福していると映画で表現している。

神は、自転車ほしさにクルアーンの朗誦大会に賞金目的で

参加したワジダを優勝させるからだ。

その賞金は、頑固な女校長によって、強引にパレスチナへの

献金に当てられてしまったが。

 

だからラストがいい。

夫が結婚したことに絶望した母と、

優勝したものの目的が叶わなくなったワジダが

二人寄り添うシーンの後、

母は、ワジダに自転車を贈るのである。

「自転車」という「自由」を

因習にとらわれた世代の女性が、

娘に託したといってよい。

 

最後のシーンで、ワジダは、髪をなびかせ、

男友達の少年と自転車を走らせる。

彼を抜いて、少女は前へ前と進む。

この二人の将来の社会が、

広く開けますようと祈る。

 


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