「因果律」を実感

 

最近、カントを読んでいる。

面白いからだ。役にも立つ。

ただし、難しすぎて2割も分からない。

悪文とも思える分かりにくさは、

「認識」そのものの限界を語っているからだ。

 

経験以前の、人が本来持っている認識の型で

因果律の把握がある。

手に持ったボールを放すということを

「原因」とみるから、ボールが地面に落ちるという

「結果」を認識できる。

この型が無くて同じことをすると、

ボールは、意識したときに目の前に「出現」する

点のようなものになる。

 

もし、因果律を把握できなければ、

人は「自分」という一貫性をたもてないはずだ。

行ったことの原因と結果が分からなければ、

自分という「物語」を持てず、

生活も歴史も積み重なっていかない。

原因結果がなければ、目の前のモノは、

なんの関係性もなくなる。

微生物なんかは、こんな認識法なのだろうか。

腹が減るから食う、ということは、

因果律を把握してなくても、

身体が無意識にやってくれるからできるのであろうか。

 

こんな話、メシの種もならない暇人のたわごとと

思うなかれ。

人工知能のプログラムに使われることは確かだ。

でも、そんなことは目ではない。

因果律を把握できなければ、

人は「人」になれないという実感させてくれること

そのものがすごいことなのだ。

 

因果律の把握は、「悩み」の源泉である。

しかし、この悩みは、

所詮認識の型に過ぎないと考えれば、

かなり心が軽くなる。

もちろん、情念は消え去るものではないが…。

 

 


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