映画鍋

 

南京事件についての映画を2本続けて見て思ったのは、

同じテーマでもぜんぜん取り上げ方が違うことが

当たり前であっても、興味深かった。

 

映画鍋をつくるとして、

史実、つまり歴史手的事実という食材が、

1から4まであったとする。

巨大な1をぶちこむか、

まんべんなくすべてをそろえて入れるかだけでも

相当に違う映画ができる。

 

実際は、もっと複雑である。

自分の考えに都合の悪い1とか2とかをあえて削除したり、

あるいは主張したい3を強調するため

5という新しい要素をつくって入れることもできる。

テイストとしてもキムチ鍋か味噌鍋にするかによって、

食材の味そのものが各々変わって、

さらにいろんなバリエーションができてくる。

 

したがって歴史を扱った映画は、史実ではない。

史実を煮た「創作料理」である。

しかし、史実から生まれた「世界観」であり、

史実とつながっている。

史実の本質をとらえた概念になりうる。

だからこそ、多様な「世界観」の映画を見て摂取してこそ、

各個人の「世界観」はゆっくり出来上がってくる。

それは、常に懐疑されることで可能となる。

一つの「価値観」を盲信することは、

自分や周囲に害をまき散らすのだ。

そうした傾向が、最近、多いような気がする。


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