むむむん…


えいっ!

 

ここ最近、色鉛筆の殴りがきばかりで怠慢だ、

と思われる方がおられるかもしれない。

でも、いたって真面目なのだ。

 

毎日朝、真っ白い紙を目の前にするまで、

何をえがくか自分でも分から入ない状態にして

瞬発的に何かをえがくことで

自分の内面をあらわしてみたいという実験を

しているのだ。

 

さて、今日は「えいっ!」という気持ちが

出て来て上のように。

緑のはねた線は、右寄りである。

心の外に向かって、跳ね上がる、

という衝動を持った線。

 

昨日の赤線の「ぐるぐる」は、

内面の中心の一点に向かって気持ちが集中。

感情爆発の一歩手前。

 

さらに一日前の「ぶくぶく」は、

内面の「海」に飛び込み、

その底に沈むイメージ。


ぐるぐる

 

 


ぶくぶく


失敗?…

 

糖尿物語4/

 

糖尿対策で、塩麴をつくろうと、

麴と塩をあえてガラス瓶につめ醗酵させていた。

気温が低いのでなかなかドロドロにならず。

一週間ほどして、やつと頃合いになったと思って

ちょっとなめたら、えうらく辛い。

塩分濃度が高すぎたようだ。

なめてしばらくすると、

なんだか胸が少し熱くなる気もする。

せっかくつくったのに捨てるのもおしいが、

体にいいものなのかもよく分からない。

たんに「塩」として使えばいいのか。

 

ちなみに待ちきれず、市販の減塩塩麴を

買ってキャベツや人参、ナスビをつけてみたが、

数時間で味がしみ、なかなかいける。

自分がつくった麹より、甘くてあっさりしている。

 

麹ものは、生き物を育てるみたいで面白い。

醗酵玉ねぎは、前につくったことがあるが、

これをまたやってみてもいいな。


愛の粒

 

依存症者家族は、どんなことに苦しむか?

アルコール依存の夫を持ち、今は支援者である

Y-ARANのナラン直子さんにお聞きし、以下の記事にまとめた。

https://adachikodomo.ioh.tokyo/archives/687

 

 

 


「依存症者家族」から「支援者」へ

 

依存症者家族は、どんなことに苦しむか?

アルコール依存の夫を持ち、今は支援者である

Y-ARANのナラン直子さんにお聞きし、以下の記事にまとめた。

https://adachikodomo.ioh.tokyo/archives/687

Y-ARANは「横浜依存症回復擁護ネットワーク」で、

横浜市磯子区の民家を施設にしている。

だが、「施設」というよりは、依存症者とスタッフの

心地良い「居場所」という感じ。

そこを力強く支えるのが明るい人柄のナランさんだ。

アルコール依存症者の夫は、モーリシャスの人で、

 

うかがうと依存症者の家族の立場は、

とてもつらいもの。意識があやふやな相手の言動が、

すべて記憶され心に刺さるという。

依存症者を支える家族が、どうもちこたえるか、

ナランさんのアドバイスは、人生観そのもの。

 

依存症者の夫がモーリシャス出身であることで、

海外ルーツの人に厳しい日本社会の軋轢にも苦労された。

「多様性」の大切さを実感する人でもある。

 


麺よ、さようなら

 

糖尿物語3/

 

糖尿病の者が食べれるものをネットで検索していくと、

麺類が全般的にアウトということになる。

食べれぬことはないが、低糖質のものを選べとある。

もう気楽に、うどんだの、ラーメンだの、

パスタだの、そばだのは、口にできないということだ。

 

今まで、こればかり食ってきた自分にとって、

「何を食えばいいのだ?」という気持ちにもなる。

だが、高糖質のもので体を痛める食環境に

周囲が満ち満ちていることこそ異常なのかもしれぬ。

加齢でその防御力が落ちたまでのことだ。

日に3度ラーメンを食う

ラーメン専門のライターさんは大変だなと思ってしまう。

 

愛しき麺類と、お別れしなければならぬ。

手放す悲しみに、耐えねばならない。

「さよならだけが、人生だ」とつぶやいてみよう。

すると「こんには、も人生だ」も真だと思える。

 

それに代わる主食として、「玄米」にしてみた。

まずいまずいと思っていたが、

納豆類などネバネバのものと

合わせればかえって美味しいことを知る。

調べれば、「もち麦」は、「玄米」より

繊維が豊富で味もいいらしい。

本日買ってみようと思う。

 


律動

 

ジャズが、だんだん体にしみてくる。

 

うねうね噴きまくって爆発ソニー・クリス、

原始に戻って雄たけび上げるチャールス・ミンガス、

貴族の館で幽玄の美たたえるうレニー・トリスターノ、

無意識の闇を切り裂くマイルス・デイビス、

欲動を天に突き上げ浄めるジョン・コルトレーン…、

 


混沌たる時代と亀裂の光

 

 

学校関連の新書を何冊か読む。

わが子に対する些細なクレームことを

学校にねじ込んでくる「モンスターペアレント」だが、

ようは「オレ様化した子ども」が成人して

親になった世代に当たる。

つまり、自分とドンピシャの同年代である。

 

「社会」が「自分」に合わせよという

間違った自我にこり固まった、

いはばちゃんと社会化できてない人たちだ。

と言われれば、自分もそれに該当する気がして

心もとなくなる。

たしかに今の大人の「個」は脆弱である。

 

プロ教師の諏訪哲二さんは、

人はまず社会性の基礎をつくってから、

その上に個を育てる、それが学校の役割だと

書いていて、なるほどと思う。

われわれの世代から、学校ではそれが

成立しなくなった。

なぜなら、

「オレ様化した子ども」は、

「社会」を素通りして、

未成熟の自我のままの「個」を「個」だとして

胸を張り、自足してしまうからである。

その親の子がおかしくなるのは当然。

 

でも深層で欠けているのは、

「敬虔さ」かもしれない。

「社会」も「個」も飲みつくして否定する

偉大なものに対する畏怖の感情だ。

戦前と戦後しばらく「学校」が畏怖感情の教育を

少し肩代わりしたようだが、

人工物にすぎないものに、土台無理である。

今の日本の場合、もちろんそれは宗当然教ではなく、

個々のカルチャー、または天災かもしれぬ。


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