ドングリは、無邪気にコロコロせず
発達障害児向けアート授業の教材に
ドングリがいいかなと、足立区の公園に
探しに行く。
しかし、10月ともなると、
ドングリは土に入り込んで
ふにゃふにゃになっている。
半分腐っているようだ。
自然の生々しさ、生臭さ。
こうしたメタモルフォースの
エロティズムを
子どもは感じてもよいのではと思う。
しかし、腐ったドングリは、
教室ではとても教材にならない。
不潔で菌がウヨウヨしてるからだ。
教材は、紙粘土、絵の具、ダンボールなど
無菌的な安全な素材でないと、
50分という限られた時間の中での
授業はなりたたない。
本来、子どもは子ども自身の秘密の時間を
持たなくてはならぬ。
そのデリケートな時間を、
親がわざわざ金を払って、他人の講師に
確保させる、という意識的な行為を
しなくてはならない「今」という時代は、
相当に歪んでいる。
そう感じつつ、その歪みの中に
入り込んでささやかな営利を得ている
「私」という存在は、
いったい何なのだろうか?