迷路に入ります

 

我ながらに大それたシリーズをやるもんだと思う。別に哲学に通じてるわけではない。でも好き。扱うテーマが、子供が素朴に疑問に思うようなことばかりだからだ。かといって、浮世離れした話でもない。一つひとつの考え方が、その人の生き方につながっていく。例えば、「人は本当のところ、ワルかいい奴か」という疑問も、考えようで日常での人とのかかわり方が変わってくる。むろん正解はない。自分でうんうん考え続けるのが「哲学」だと思い、お題を上げて、ウロウロと考えようと思う。賢人のテキストを元に、自分の理解できる範囲で(そんなにキャパは広くありません)。では、迷路へ、ご一緒に…。

わたくしの本当の姿は…

 

哲学1/『宮沢賢治詩集』「春と修羅 序」より。この一節を読んで以来、自分が「電燈」に思えてしかたない。歩いていても、ラーメンを食べていても、体の中でぼーっと光を灯している感じ。それも有機体として発する電気によって。脳の神経やら、細胞の間やら、電流がパチパチ飛んでいるそうだから、生物学的には正しいイメージなのだろう。そんな「わたくし」を「仮定された現象」というのが不気味だ。自分は、「存在」といいきれる確固としたものでなく、とてもおぼろな霞のようなものに思えてくる。「わたくし」は、永遠の時間の中のある一定期間、「青い照明」となって燃え続け、ふっと消える。そして闇…。

「悪」は虚ろか?

 

哲学2/中村雄二郎著『述語集供戮痢岼」より。以前から悪について興味がある。人はよくある行為に対して、これは善だ悪だ、と色分けする。でも、これはある社会の規範の中で判断されること。違う社会だと、善悪ひっくりかえることもある。一方で、誰でも「そうだ」と判断できる善悪もあると漠然と思っている。だからか、中村氏の上の一節を読んで、ひどく驚いた。西洋では、「悪」は「善」と対峙するのではなく、「善でない存在」にすぎないなんて。じゃあ、あの存在感たっぷりの悪魔ってなんなんだ、と思う。この話、後2回やります。

スピノザの顔をいじくる

 

哲学3/中村雄二郎著『述語集供戮痢岼」より。悪は単に「存在の欠如」とする西洋哲学の中では、異端の存在であるスピノザの説を紹介。「関係」というのが大事。「目」「鼻」「口」が、その能力をいかんなく発揮するには、顔の一部として「顔」と正しき関係にあるとき。これが「善」の状態。目が口の位置にあったり、鼻がおでこにあったり、口が顔から地面に落ちてたりなんかして顔ときちんとした関係を結べなければ、まともな仕事はできない。これが「悪」の状態。つまり「悪」とは、あるべき関係が解体すること。もし顔が解体すれば、ゾッといやな気がするのは、そのまま悪に対する感情につながる。…と、いうわけで、スピノザさん、顔で遊んでゴメンナサイ!

殺人について

 

哲学4/中村雄二郎著『述語集供戮痢岼」より3回目。上の情景は、写真家ロバート・キャパによるベトナム戦争時の捕虜公開処刑の写真から。中村氏は述べる。「殺人が悪であるのは、われわれが自分たちと原理的に一致している同類の身体を侵犯し、われわれの生存が依拠する基本的な関係を破壊するからである」。人は人とつながって、社会の中でこそ生きることができる。人を殺すことは、己を生かす人との関係性そのものを壊す。したがって殺人者は社会から疎外される存在に。その状態を神戸連続児童殺傷事件の犯人・酒鬼薔薇は、「絶対0度の孤独」と言った。

「悪」というエネルギー

 

哲学5/中村雄二郎著『述語集供戮痢岼」より。「悪」は後ろ暗いだけでなく、前向きの面もある。古い関係を壊し、新しい関係をつくり出す、大きな力になりえる、と。著者の中村氏は、日本中世13〜14世紀頃に現れた無頼漢「悪党」に無頼漢に注目。行き詰まった鎌倉幕府を倒す、アウトローたちだ。幕府に反旗を翻し後醍醐天皇の建武の新政を助けた人、「楠木正成」の名もさらりと出す。悪とは、構造に劇的な変化をもたらす荒々しいエネルギーそのものに思える。だとしたら、悪は、道徳や倫理を超えて、人や社会には時として必要なものなのか。悪の破壊によって蹂躙される存在が現れるのは、歴史が進んでいくにはしかたのないことか。ただ、荒れ狂うエネルギーを、「善」だの「悪」だのといった、人間社会の価値基準(個々の文化、歴史の推移でどんどん変化する)で見ることこそ、ナンセンスなことなのか。やはり哲学の道は、いつも袋小路に…。

「カリッ、ジュワッ」の法則

 

哲学?/なぜ「カリッ→ジュワッ」は、うまく感じるのだろうか、何か法則があるのではと考えてみた。最初のカリッで舌が「軽いものなのだ」と思いこんだのに、意外や「ジュワッ」とジューシーな重いものが来た。その裏切りとギャップの新鮮さが「美味しい」という感覚を生み出す。いや、ギャップだけなのか。「軽、乾」のカリッ、「重、濡」のジュワッと性質の違う両者を、入れ替えた順序で味わったら、何か変わるかもしれない。法則を求めるなら、この性質だけを取り出して、別のモノ、例えば人に当てはめればどうか。と、上の実験をやってみた。でも、カリッを恣意的に悪なるものにしていることに気がつく。その方がマンガ的に面白いからだ。さらに「カリッ→ジュワッ」の法則を快・不快、善悪の概念につなげようとする自分の強引さを認識してしまい、「哲学」Δ惑砲燭鵑靴討靴泙辰拭それも哲学か。ただのマンガにしときゃよかった。ということで朝から頭が痛くなる。

自分流出

 

「お笑いコンビ・オセロの中島知子が、占い師にマインドコントロールされている」という話題は、妙に痛々しい。「自分」という存在が、いかに心細く頼りないものか、思い出させてくれるから。人は、自信喪失やストレスでひび割れて流出した「自分」の中身の空虚さを、何かで埋めたくなるものだ。その隙に付け込まれ、中島は最悪のものに「自分」を丸ごと乗っ取られてしまった。誰にでも起こりうることだ。今の世を生き抜くには、常に「自分」を確かな「自分」で充填しておかなくてはならない。だが、結構変なことである。付き合うのが面倒な「自分」を全面的に他者にゆだねてしまうのは、甘美な状態でもあるからだ。「自分」を持ちつつ、他者と関係し続ける、というのは、何か自覚的な覚悟が必要なのかもしれない。

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