エレキで叫べ、般若心経

 

パンク般若心経1/今、高神覚昇著の『般若心経講義』を読んでいる。初版は昭和27年で、敗戦の焼け野原に呆然とする日本人を励ました名著だ。この本から学んだことより思い浮かんだイメージで遊んでみたいと思う。「般若心経」といえば抹香臭い感じがするが、その内容はえらく過激ともいえる。世のちゃぶ台をひっくり返して叫ぶパンクロックの精神に通ずる気もする。とんがったエレキの響きにノリノリ体をのけ反らせ、「空」の世界に飛び込むぜぇ〜ザボンッ!

「有」も「無」もガランどぅー♪



パンク般若心経2/一切は「空」だという。「空」ってなんだ? 「有」でないのは分かる。「無」ではない、というのが分からない。それで、「私 」について考える。「私」という存在は、今、淡々とここに「有」る。しかし百年もすれば、「私」はパッと消える。その後ずっと出てこない。子供の頃、そう考えると恐ろしかった。後の永遠は「無」だが、でもかつて「有」でいたことは本当だ。だから「私」は、「無」でない。でも厳然とした「有」でもない。それが「空」ということか。屁理屈っぽいな。「空」って、「私」が出てくる前のエネルギーの塊か波のようなもんではないかと考える。するとなんとなく分かったような気がする。

「空」のイメージ

 

パンク般若心経3/物理学では、物質はエネルギーだという。エネルギーが無形のままでブンブンとせめぎ合っているのが「空」の状態じゃないかと思う。この世に出現しているあらゆる存在は、流動的なエネルギーがニョキッと外に出て、物質的に固まったものではないか。その「空」と「存在」をつなぐものが、仏教でいう「因縁」だと勝手に考えている。原因から結果を引き出すものである。それを拡大してみると、因縁の繊維の束が、脳細胞のように複雑にからみあっている絵が浮かぶ。では次回は「因縁」をイメージしてみよう。
※これまでの、またこれからの記述も、本に触発され私的に妄想したことなので、般若心経の教えに正確でないとお怒りにならぬよう。あくまで「パンク」としてお楽しみください。

「因縁」を弦に、「存在」を鳴らす

 

パンク般若心経4/本によると、仏教では「因縁」をやかましくいう。お釈迦様が、それを発見して悟り至ったからだ。パンク般若青年を見ても、彼の心身が、因縁の複雑な糸で編みあがっているのが分かる。上図はごく単純化したものだが、彼が存在する「因」の大元はもちろん両親。そこから因縁の糸が伸びる。そこに向かって、様々な別の「因」が現れ、また格自の因縁の糸をからめていく。別の因とは、多様な人、食事、文化、事件、言葉、時間など、出会う一切のもので、各因縁の糸を伸ばして影響を及ぼし、現在の彼という「果」を形作っている。そして「果」は即「因」となり、また新しい因縁の糸をうじゃうじゃと生やしていく。頻々と起こる因果の間で、彼は、果てしなく、川の流れのように変化していく。ここでは因縁の糸を自分から取り出して、エレキの弦にし、彼自身を物悲しくかなでている。因縁の自覚は、なぜ重要なのか。「苦」を滅却する処方箋だから。この続きは、何週間後に、つづく…。

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